こんにちは! 本多建設の本多和彦です。 |
1993年(平成5年)8月に私は愛親覚羅連紳さんに、武漢で |
お会いしました。私と一緒に会社を作った友人の知り合いが |
武漢の私たちの社員となり、その家族と連紳さんが親しい |
ことから、当時連紳さんは武漢鋼鉄大学の教授をされており、 |
私たちの会社の顧問になっていただきました。 |
年齢は私の父親とほぼ同じ年だと覚えていましたから、当時 |
で68歳から70歳だったはずです。清朝の皇族第10代粛親王 |
を祖父に持ち、粛親王の娘、金壁輝(きんべっき)、日本名 |
川島芳子の甥にあたる人です。 |
学生時代、東京工業大学の前身の学校に入学、満州事変 |
が始まり帰国。戦後日本のスパイ容疑で20年以上軟禁 |
されていたと聞いています。鄧小平が主席となり、軟禁を |
解かれ、武漢鋼鉄大学の教授になったそうです。 |
武漢では有名ですが、権力はありません。日本語が堪能で |
すから、日中友好協会の役をされて、まだ日本企業進出が |
まばらでしたから、私たちの会社の顧問になっていただいた |
わけです。また久しく日本語を話さなかったため、日本人の |
我々や日本語を話すことを大変嬉しく思っていたようです。 |
ほぼ毎日私たちのホテルに来られて、品物が到着するまで、 |
暇でしたので、昔の話をしていただきました。当時は私も |
不勉強で、「ラスト・エンペラー」の映画を観てはいましたが、 |
そんなに近くの人だとは思ってもいませんでした。今それが |
悔やまれてなりません。あのときもっといろいろなことを聞いて |
メモでもしておけば良かったと。 |
日本語は話すほうも、聞くほうも大変上手なのですが、 |
ゆっくり、遠回しに話すので、仕事以外の歴史の話を聞いて |
いると、先生の授業を聞いているようで、いつの間にか |
眠りかけて、コックリしだすと、「本多さん、聞いているんです |
か?」と怒られる始末です。 |
連紳さんの叔母川島芳子の短歌集の生原稿を連紳さん |
が保存しており、2001年(平成13年)歌集として発刊され |
ました。「真実の川島芳子」帯タイトルには「誰も掴めなかった |
僕の正体」ー中国清王朝の皇女として生まれ、川島浪速翁の |
養女となり、信州松本を故郷として、激動のアジア史を疾風 |
のごとく駆け抜けた男装の麗人、東洋のジャンヌ・ダルク・・・ |
その真実の「心」に迫る、貴重な歌日記。ー |
川島浪速という人物、連紳さんから聞き及ぶには、日清戦争 |
での戦勝国日本は台湾を植民地とし、台湾人との交渉に |
副島種臣の三等通訳として川島浪速が同行した、とあります。 |
また、1900年義和団事件(映画北京の55日で有名)の際、 |
連合軍が北京に入ったとき、日本軍の司令官は副島種臣で、 |
そのときも川島浪速が通訳官としてついており、連合国総司令官 |
は紫禁城攻撃しようとしたとき、川島浪速が平和的な解決を |
提案し攻撃はやめるようになった。そのため清王朝は彼への |
信頼が厚くなったといわれています。 |
清朝が崩壊し、北京を脱出し川島浪速の養女として来日する |
ことになった。大正元年芳子6歳の時。昭和3年上海に渡り、 |
日本の特務機関と出会い、諜報活動をするようになる。これが |
東洋のマタハリといわれ、昭和20年終戦と同時に国民政府( |
蒋介石)の憲兵に逮捕される。昭和22年戦争犯罪人として |
死刑の判決を受ける。23年3月25日死刑執行、42歳。 |
連紳さんから送られてきた、「真実の川島芳子」の本に記載 |
されたいたのが上記の通りです。5年前に連紳さんは病気で |
亡くなりました。この米沢には2度ほど来られてます。「本多さん |
あなたと私は友達です。」何度か聞きました。光栄です。 |
時間があればもっと話をしておきたかった。私にとっての |
大切な懐かしい友人でした。だから中国人が好きなのかも |
しれません。 |
2015.11.16 |
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