アフガンに取り残された邦人、とその関係者がまだかなりいるというニュースを聴く。
我が国何をしていたの。
昨年3月、クルーズ船で感染が起きて、かなりの外国の人たちが足止めになっていた時、
飛行機で迎えに来た国、いくつもありましたよね。
自国の民を守る。
何年か前我が国も飛行機だしたことあって、あ~あ、我が国もようやくそうなったと安堵したことがありました。
かれこれ30年近く前の湾岸戦争の後のことです。
湾岸戦争の頃はヨーロッパ旅行は避けていて、ようやく行けるようになった頃。
地中海を1日クルーズで島めぐりをしました。
島のおみやげやで売り子をしていた若い日本女性と話をしました。
帰りの船に乗ったら、その女性がいて・・・・高校生でした。
外の景色もみず、船内で何時間も彼女の話を聞きました。
私たちが知らない湾岸戦争の生の「歴史」の話を聞きました。
湾岸戦争の時、そこに住んでいる邦人に我が国は何もしてくれなかった、という言葉が胸に突き刺さりました。
たしか、ありましたよね。
我が国は飛行機を出すこともせずにいましたよね。
トルコが自国の民には、歩いて帰国させ、その昔和歌山の串本町で受けた恩を返すべく、自国の飛行機に日本人を乗せて脱出させてくれたというエピソード。
外国で頼りになるのは、パスポート。
でもそれが護ってくれなければ。
今回お隣韓国の大使は帰国した後、またアフガンに戻って自国の民を救出させたと。
我が国の大使館員の脱出は早かったですよね。
そのニュースを見ながら、76年前満州から兵は先に撤退して開拓民が残った話が思い浮かびました。
「関心が無かった管首相」と新聞にその文字が踊っていました。
いま関心のあるのは、ご自身の延命ですかとの文字も・・・。
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