昨年の秋口、夫の元同僚たちとの2年に1度の旅行が、バリ島になるかもしれないと夫が聞いてきた。
バリねえ・・・・実は私の初の海外がバリだった、34年前のことである。そしてさらにその13年後の今から22年前、思いがけず1枚の絵を買ったらご招待となり、2度目のバリを楽しんだのだった。
その時も夫は休みが取れずに断念。
夫が行きたいといえば私に断る理由はない。
そのバリ行が途中国内旅行になってしまった。
しかし行くつもりになっていたから、2人だけでバリに行くことにした。
飛行機の席の割にはお安いツァーを見てしまったからである。
そんな訳で本日はバリの最終日を過ごしているハズである・・・・先行投稿です。
34年前のバリはとても素朴であった。文明は水を頭に載せて運ぶカラフルなバケツだけかと思えた。
夕方には道の横の水路で水浴びをする人の姿があり、夜田圃道には蛍の乱舞が見られた。
農村では田んぼの代かきは牛だったし、稲刈りは小さな鎌で穂先だけ刈り取っていた。神さまに刃を見せないためにとか。
日本の50年前の姿だった。とにかく懐かしい農村風景てあった。
スコールにバスは雨漏りしたりした。
このまま洗濯機の中に突っ込んで洗いたいと思えた子供たちは、遠慮勝ちにダラー(ドル)と言ってつきまとったが、のどかなものだった。
1000円・1000円もそんなに多くはなかった。
そして一番はバス2台の団体の中から、コレラに2人罹患したことだった。最初の闇鍋がいけなかったらしい。
闇鍋とは、帰国後の私たちが付けた言葉であった。
ホテルの庭でショーを見ながらバイキング形式の夕食だったのである。十分な灯りのないまま。
飲み水には気を付けていたけれど、生野菜や氷まで気を使っていなかったかもしれない。
翌日2人が体調を崩した。
結局シンガポールに行って入院となった。
異国で入院となると病院のお金は前払いになる。ツァーの皆さんが持っていた日本円を残して帰ってきた。
帰国後家に帰ってから、コレラだと聞いたというより保健所から電話がきたのだった。
災難だったのは、帰りに醤油味が恋しいと寄ったお寿司屋さん。そして翌日結婚式に出席した方と同席した皆さん。
お寿司屋さんは店内消毒と営業もできなかったでしょうし、結婚式に招待された皆さんも保健所の検査があったことでしょう。
その頃のインドネシアの皆さんは保菌者が多かったとか。
旅行者も菌が体内に入っても、幾日かすると出てしまうこともあるとか。私たちより1日早く検査した皆さんは隔離病棟へ。1日遅れの私たちは無事。
その頃、国内でコレラはほとんど聞かれなかったから、本当に1ケ月間テレビと新聞で報道され続けた。
買ってきたおみやげも配ることもできず、そっと息をひそめて過ごしたものだった。
それだけに想い出深いとも言える。
2度目のバリはすごい勢いで変わっていた。
1000円・1000円がすごい。オートバイでバスを追いかけてくる。
観光地の駐車場は菓子の空き袋が山のように捨てられていた。
たぶん習慣なのだと思う。かっては捨てれば土に帰るものだったから。
子供たちは露骨にお金をねだった。
なぜか戦後10年も経っていた頃なのに、何も知らないままに飛行機が上空を通ると「チョコレート」や「チーュインガム」を落せと叫んでいた記憶がよみがえるのだった。
これが何のことだかと知ったのは大きくなってからだった。進駐軍がチョコレートやチューインガムをばらまいていたという名残なのだ。
このみじめな思いがわずかなお金を与えることを躊躇させるのだった。
観光客はリゾートホテルとプライベートビーチで別世界を過ごす。
あれから22年ぶりとなる今回のバリ。
どんなにか発展していることだろう。
期待と共に、最初に出会ったあのはにかんだ少女にもう出会えないのではないかという寂しさも予感するのである。
地震・火山の噴火に津波とこの頃災害が多いインドネシア。報道される度にドキッとするが、行くことが復興の役に立つと思うことにしている。
それではまた。
依田美恵子 軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家 <div align="center"> <strong> 【 中島木材のホームページは <a href="http://www.nakajima-sc.com/" target="_blank">こちら</a> 】 </strong> </div> <a href="//house.blogmura.com/chumonhouse_contractor/ranking.html?p_cid=
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