代表の須田敏です。 今日は昔の話を書きたいと思います。
日野原さんが105歳という長大な寿命を全うされました。
遠目でお見かけしたことしかなく、特に個人的な感情はありませんが、ご冥福をお祈りいたします。
清水建設の内勤時代に、聖路加病院の構造積算を担当しました。
あのときは、なんと広大で贅沢な病院を作るんだろうかと、見積をしながら思ったものです。
実はそれこそが、大東亜戦争を軍医将校として生き抜いた日野原さんの意思そのもので、その建物が数年後に起こった、地下鉄サリン事件の時に絶大な効果を上げ、多くの人命を救いました。
こちらにその経過が書かれています。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Ningen/tikatetu_sarin...
清水建設と聖路加病院の縁は、深いものがあります。
戦前に清水が資金繰りに詰まって従業員の給与も払えなくなった時に、救ってくれたのが聖路加だったのです。(社史180年誌に出ている)
こんな事を知ってるだけで年寄りです。
日野原さんは、よど号ハイジャック事件の時によど号に搭乗し、ソウルで開放されました。
あの時ハイジャックされたよど号機長の石田さんは、戦前の大日本航空出身でした。
その大日本航空の同期パイロットだった斎藤元さんと言う方と、平成3年頃に同じ現場で仕事をする機会を得ました。
斎藤さんが言うには、戦争が始まると、民間航空会社の仕事は無くなりパイロットは軍隊に入ったそうです。
日本は航空大国でした。
先輩も後輩も、みんな軍のパイロットになったそうです。
斎藤さんとは、吉原大門の桜鍋の店へ、よく飲みに連れて行ってもらいました。
現場には数多の社員が居たのに、私だけを連れて行ってくれたのですから、今思えば贅沢な時間でした。
石田はモテたからなあ。 と言っていたけれど、それで人生を棒に振ったんですから、皮肉なものです。
斎藤さんは、沖縄戦の時に沖縄爆撃に行った時の話をしてくれました。
夜間爆撃で沖縄に近づくと、高射砲の弾が沖縄の島の形で打ち上がってくるんだ。 と言ってました。
その中を飛んで爆弾を落として、帰りは海面を低空飛行で戻って来たそうです。
戦後、昭和30年代。 銀座で飲んでいて、清水建設の社長車を見つけて運転手に店を聞き出し、社長のツケで酒を飲んだ話しをしてくれたり、いにしえののんびりした時代の話をしてくれたな。
斎藤元さんは戦後清水建設へ入り、空を飛びませんでした。
日本には航空会社も無くなってしまったし、仕方なかったのでしょうね。
私も退職してだいぶ経ちました。
消息を知る機会もないですが、もう亡くなっているんじゃないかな。
ときどき書きたい昔話しが出てくるが、もう歴史の中の出来事ばかりです。
ただの年寄りの思い出話。