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小豆島でまさか尾崎放哉に出会うとは・・・ ~・会長ブログ・~

こんにちは! 本多建設の本多和彦です。

 

  先月、九月中旬、私とほぼ同年代の友人と二人で、3泊4日の小旅行をしてきました。行き先は岡山から四国の高松を回り、そこからフェリーに乗って小豆島へ渡りました。岡山で1泊し、日本三大名園のひとつ、後楽園と、岡山城をみてきました。後楽園はこれで二度目となりますが、岡山城は初めてでした。

 翌日、高松の栗林公園を訪ね、午後には小豆島に着きました。ホテルにチェックインして、時間があるので観光案内の地図を見ていたら、近くに尾崎放哉記念館があったので、まさかこの近くにあったのかと驚いて、早速行ってみました。

 私たちの着いた小豆島の港は、土庄港というところです。土庄町と書いて(とのしょうちょう)と呼びます。小さな町です。尾崎放哉が亡くなったのは小豆島であることは知っていましたが、この街にその記念館があるなどとは知りませんでした。

 

 ___尾崎放哉(おざき・ほうさい)、1885年(明治18年)に今の鳥取市に生まれ、東京帝国大学法学部卒業後、東洋生命保険会社に入社、旧制中学時代から句作を始め、一高俳句会に参加。自由律の俳人として句作を続け、流浪遁世ののち小豆島南郷庵にて41歳で病没。

と村上護編、尾崎放哉全句集の本の見開きに紹介されています。

 山頭火(1882年明治15年-1940年昭和15年)とはほぼ同時代に生きた俳人でもあります。一般的には山頭火の名前が有名になり、彼も自由律の俳句を発表してきましたが、どういうわけかラーメン屋の屋号でも人気があるみたいです。

 この二人こそが自由律俳句の元祖とも呼ばれるのではないかと思います。そのあとに彼らほどの強烈な自由律俳句を見たことも聞いたこともありませんから、これからももう出て来ないのではないでしょうか。

 なぜなら、彼らの生き方が、彼らの俳句でもあり、あの破滅型の人生を送れるような時代はもはや存在しないのではないでしょうか。

 

 東京帝国大学を失業し、一流の生保会社に就職するも、酒癖の悪さで会社を辞め、友人の紹介で朝鮮の保険会社に再就職するのだが、そこも酒が原因で一年ももたず帰国。その後転々としながら俳句三昧の生活を送り、最後は小豆島の庵寺で、極貧の中ただひたすら俳句を作り、若くして病没した人であります。

 

 私は何年か前に、吉村昭著の尾崎放哉を小説にした「海も暮れきる」を読んで、すっかり放哉の俳句に魅せられ、「尾崎放哉全句集」、「放哉と山頭火」を読み、最近では2022年に出版された、金子兜太とお笑い芸人であり直木賞作家でもある又吉直樹との共著である「孤独の俳句、山頭火と放哉・名句集110選」を読み続け、俳句の良さがどこにあるのか今もって理解できませんが、この二人の俳句だけは、胸にビンビンくるのです。

 

 土庄港には午後3時頃着き、すぐ近くのホテルにチェックインして、偶然、観光ガイドラインの地図で見つけた、尾崎放哉記念館が近くにあることがわかり、行ってみました。

 

土庄港からバスに乗り5分もしないでバスを降りて、そこから迷路のような人家を歩いていくと、西光寺というお寺があり、その寺の境内の中に、放哉の居宅が記念館としてありました。その日は閉館になって中は見られず、そこから墓地に向かって歩いていくと、放哉の墓への矢印が立ってあるので、お墓を探すこともなく見つけることができました。そのお墓に辿り着くにはだいぶ階段を登らねばならず、お墓に着いた時には息を切らしてぜいぜいとなるほどでした。高台に放哉のお墓があり、そう新しくもなかったお酒の入った瓶が供えられてありました。

 

 ひょんなご縁であなたのお墓にこられたことは、もしかすると、この旅の最大の収穫かもしれませんとお墓に語りかけてきました。お参りして振り返ると、西光寺の塔を正面に、街の全景が見渡せる絶景が広がっていました。なんの理由もなく選んだ小豆島への旅は、尾崎放哉との出会いの旅だったんだと、帰ったらまた放哉の句集を読んでみようと思いました。

 

「咳をしてもひとり」

「こんなよい月を一人で見て寝る」

「追っかけて追いついた風の中」

「入れ物がない両手で受ける」

「障子しめきって淋しさをみたす」

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