こんにちは! 本多建設の本多和彦です。
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三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、
割腹自殺を遂げたのは、昭和45年11月25日でした。
今年で50年目を迎えます。
当時私は大学4年で、卒論がなかなか書けなくて
学校へも行かず、昼夜逆転の生活をしていました。
あの頃、多分まだ就職先が決まらず、
まわりの同級生はほとんど地元での就職先を見つけたり、
東京に残るやつはそこそこの会社にすでに決まっていましたから、
私は焦りと将来への不安を抱えながらも就活に真剣さがなく、
ひたすら小説の世界に逃げていました。
卒論を仕上げるより今耽読している好きな作家の本を片時も離さず、
昼頃目が覚め、インスタントラーメンを食べ万年床に入り本の続きを読み、
夕方近くの銭湯に行き、帰りに定食屋で夕飯を食べ部屋に戻り、
朝方近くまでさらに本を読んで一日が終わるという自堕落な生活を続けていました。
今思えばある意味では引きこもりか、社会生活不適格者のような感じがします。
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その日、11月25日の夕方の4時頃、
本を読むのに飽きてラジオのスイッチを入れたところ、
ニュースが流れ、
「三島等が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入、
バルコニーで抗議の演説をした直後、割腹自殺・・・」、
みしま、ら、の意味がわからず、ぼーとしながらラジオを聞いて、
あの三島だとわかり、びっくりもしましたが、
さて、俺は今どうしたらいいんだろうと
4畳半一間のアパートの部屋をうろうろしながら、
ちょっとだけパニック状態になりました。
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大学4年になってようやく三島由紀夫の本んが読めるようになり、
読むほどに彼の世界に引き込まれ、あの文章のきらびやかさに憧れて、
俺もあんな文体で小説が書けるんじゃないかと、
以後10年近く錯覚し続けたものです。
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その日、ラジオをかける前まで読んでいた本が、三島の「禁色」でした。
以来、何かに憑かれたように三島の作品を卒業するまで読み続け、
卒論はおざなりでやっと完成したものの、成績は当然「可」と最低でした。
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大学の就職募集の張り紙を見て、試験を受けたところ、なんとなく合格できて、
少しは安心したものの、果たして無事に勤めることができるだろうかと、
社会人となる覚悟など微塵もなく、
翌年の3月、学生時代の区切りとして、ひとり、四国を10日ばかり旅をしました。
その時に持っていった本が三島由紀夫の最後の長編小説「豊饒の海」4巻のうち、
「春の雪」と「奔馬」は読み終わって、
「暁の寺」と割腹自殺のその日の朝に書き上げたという「天人五衰」でした。
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旅の間中ずーと、私の精神構造の8割は三島由紀夫に占められ、
虚構と現実の区別がつかない状態で、大学を卒業しました。
3月下旬、就職先の新入社員研修で、
3泊4日の合宿が群馬県の赤城山の麓の研修センターのところで行われ、
なんとなく違和感を覚えたまま、合宿が終わってアパートに戻り、
翌日会社に電話しました。
「思うところあり、辞めさせて下さい。」といったところ、
先方では、慰留の言葉にちょっとは期待したものの、
「はい、わかりました。」といとも簡単に受理され、
俺ってそんなもんかと、さらに社会からの疎外感を強く感じたものです。
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若いころは随分無駄の多い人生でしたが、
その無駄に費やした時間が後年になって、仕事に友人関係に、
そして、自分のオリジナリティにかなり役に立ったように思います。
そして今でも自分は異邦人だと思い込んでいますから、
三島由紀夫の影響はすごいもんですね。
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2020.11.11
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