(長崎 平和祈念像)
御許に召された分け御霊(天国の方々)に黙とうをささげます。またそのご家族やいまだ後遺症に苦しむすべての人々の安らかなる事を祈ります。
私の父は九州出身、8年前に他界しましたが夏の「長崎原爆の日」が近づくと「長崎原爆資料館」を思い出します。
仕事とは関係ありませんが、そんな私の話を聞いてください。
私の「理恵子」という名前は父がつけてくれました。スペイン語で「笑う」「笑顔」という意味です。特に形見は手元になく寂しいですが、"
この名前通りの人生を生きれたら素晴らしい" とよく思います。実際は「理知や知恵に恵まれるように」という願いだったそうですが、そちらはなんだか怪しい?
9歳の解き、家族4人で九州旅行をしました。当時父は商売をしていたので日曜日の午後に少し会えるくらい。結婚前父と一緒に旅行したのはこの折りだけ。
グラバー邸・博多の屋台街、眼鏡橋、オランダ坂、大浦天主堂、その他熊本も回りましたが特に長崎は特別な場所です。
「日本二十六聖人」の前で父に処刑の話を聞き "どうしてあの人は背が低いの?" "あれは子供だよ" そんな会話をぼんやりと覚えています。
(グラバー邸)
外国人の友人は日本人の私に配慮してか「長崎」というと「長崎カステラ」「長崎ちゃんぽん」「雨」「坂道」の代名詞みたいです。
父の実家跡地と長崎原爆資料館は心のフィルムに貼り付けられ、色あせることはありません。
また戦争を身近に感じたのはこの時が初めて。
資料館で原爆によって顔がつぶれた女性の写真やいくつもの同じ時刻で止まったボンボン時計、焼け焦げたお弁当箱・・。
平和祈祷像の「右手」「左手」「瞼」の意味は小さな私にも響きました。
九州には3回旅行し、3回目は娘が連れでした。父の実家跡を訪ねたりお墓参りもしたかったのですがそれは次回のお楽しみ。"住所も定かでないお寺をいつか探し当てる"事ができるかな? 父の生家も人手に渡ったと聞きました。必ずいつか子供たちと訪れたいと思います。
少し湿っぽい? (笑)熱中症にも気を付けてお過ごしくださいませ。
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