今朝新聞に折り込みしてあった「くらしの知恵」信濃毎日新聞・信毎販売店会が月1回発行。その中の群ようこさんのエッセーを毎回楽しみにしている。
今回は「紙」。群ようこさんは私より4つ下であるから、同じ時代を生きてきた共通感覚がぴつたりとあうのである。
とはいっても戦後ようやく落ち着いてきた頃とはいえ、この時代の4つは大きいかもしれない。
今回の「紙」。昭和30年代はまだ紙が貴重品だった。その頃から群れようこさんは紙が大好きで、きれいな包み紙を丁寧にしわをのばして、紙箱に入れてためていたのだそうである。
それが私の思い出に重なるのである。
私の時代は「紙」自体が少なかった。紙と言えば新聞位、あの頃の新聞の活字は本当に小さかった。
そこに折り込まれる広告、それさえも月に幾度だかだった。車もまだ少ない時代、バスが日に何本か通るようになっていたのだろうか。
そこに入る折込は「映画館」の物が主だった。
その赤色がうれしくて、それをきちんとたたんで「花王石鹸」の箱にためたのだった。あの石鹸の香料の香りそれに出会う時、その香りがしみこんだ広告への思い出につながっていくのである。
小学校も分校だったから、そこに来てくださる先生のための宿舎に行くと、そこは別天地があった。
軽井沢で別荘の管理をしていらした先生のお宅から持ってこられただろうクッキーの空き缶もあこがれの世界だったかも。
小学校の高学年になった昭和35年頃から、急速に変わっていった私をとりまく紙の世界。
軽井沢の伯母の家にいくと、5歳違いの従姉妹はたくさんの「クリスマスカード」を持っていた。そのクリスマスカードの美しかったこと。
赤や緑、そしてキラキラした銀色・・・・。軽井沢はその頃から東京都軽井沢だったのかもしれない。
叔母がよく「お別荘」と言っていた、「別荘」ではなく「お別荘」。
子供心に美しいものにあこがれたのだろう。子供の頃の私は何かと蒐集するのが好きだった。
15歳の時火災にあって、通学鞄以外のすべての物を失って、物に対しての執着が無くなったのかもしれない。
群ようこさんも書いているが、今紙があふれていると思う。パソコンはペーパーレスになるかと思っていたのに真逆だった。
私は送りつけられる読まれもしないファツクスやダイレクトメールを、ただただもったいないと思っている。
あの1枚の折り込みの広告を宝物に思えた日々こそが、私にとって最高にに宝物だったのかもしれない。
依田 美恵子 軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家 <div align="center"> <strong> 【 中島木材のホームページは <a href="http://www.nakajima-sc.com/" target="_blank">こちら</a> 】 </strong> </div>
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