夕食後お炬燵の上に載っていた「広報佐久」の別冊が目にはいりました。「佐久の先人」として、佐久市にゆかりがある様々な先人たちの紹介文です。2回目の今回18人、第1回目も18人だったという。
実を言うと1回目は目にもしていない・・・・もったいないことをしたものである。
18人の生きた年代は1700年代から1900年代まで様々である。その中に私の住む地域のすばらしい先人の名を目にしました。
森泉武重氏(1903~1988)です。私はこの方に1度だけお会いしたことがありました。10歳の時、この年近在の町村が合併して佐久市ができたのですが、森泉氏はその初代市長に立候補したのでしたが、落選してしまいました。
その選挙活動の中、我が家に顔を出した森泉氏をおみかけしたのでした。母が「同じ村」と言った言葉が印象を強くしたのかもしれません。夕方それも薄暗くなった頃の出会いでしたからお顔など覚えていませんが。
母の生家の隣村というを知るのはもっと大きくなってからでした。
落選してしまいましたから、子供の私としての接点は何もなかったのでしたが、こうして冊子の文章を読んで見ると、我が地域に貢献なされた方だとあらためて知ったのでした。
「日本一の電化村」と新聞に書かれたのに、とよく父が言っていましたが、1955年に自家水力発電所を完成させたのでした。
1652年に平尾氏によって作られた平尾用水は、村民は大変な毎年補修作業を強いられてきたのを、1947年村長となった森泉氏は300年来の大仕事となる用水の改良を計画し、さらに農村の振興策としてその水路を使った水力発電所建設の構想を描いたのでした。
最近こそ太陽光だ水力だのと、民間の発電が当たり前になりましたが、それ以前の電力会社・国の抵抗は並大抵のものではなかったはずです
多分、私の想像するに作った電気は村民が使える物だと多くの村民は思っていたはずです。だから「日本一の電化村」と書かれたけれど、の言葉が物語っていると思うのです。
水利権や資金面も大変なことだったのでしょうが、各戸からの勤労奉仕や青年団の無料奉仕、さらに村の中学生までが動員されて村民総動員体制がとられて水路改良は、田植えの時期にまにあったと記されています。
なんとなくその様子が想像できるのは私の年代だからもしれません。今も毎年4月の日曜日に水路の清掃が行われています。
発電所ができて間もない頃、私は一人見学にいったことがありました。子供心にも太い導水管が印象的でした。
2012年この発電所はJAから市に所有が変ったということです。
もうひとつの事業は「浅間総合病院」の開設です。これも医師会の賛同が得られず難航を極めたといいます。
理想的な国保総合病院の創設を願い、東大に医師派遣を依頼に革靴を何足もつぶすほど上京を繰り返したといわれています。
こうした熱意により1955年に東京大学医学部より吉沢国雄院長を迎え、一般病床20床で開院し、今は323床の病院になっています。
今回の先人たちに「吉沢国雄」氏も載っています。
またの機会にご案内します。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家