みなさん、こんにちは!本は買うことで満足し日頃はほとんど読まない、「積ん読」の篠ケ瀬隆(ささがせたかし)です。
唯一ごく短い読書時間、お風呂に入りながら今読んでいる「カネを積まれても使いたくない日本語」(内館牧子著)という本に共感しましたので、
それについて書きます。読書と言っても浴槽の蓋を半分閉めてその上に手を出して温まっている間だけなので、
1回あたり4、5ページしか進まないため全部読み終わるころにはすっかりふやけてしまうので、
お風呂に持ち込むのは捨てても惜しくない文庫本などにしています。
著者は「言葉は生き物であり時代とともに変化する」と認識しているものの、最近あまりにもひどくないか?と呆れています。
「かな」「とか」「とは」「みたいな」「感じ」「かも」「~のほう」「ら抜き」など。
例として「早く元に戻ればいいかなとは思う」「お手洗いのほうは三階のほうになります」「今度の連休とかは映画とかに行こうかな、みたいな感じ」など、
紹介しきれないほどたくさんあります。私が特に気になるのは「語尾上げ」です。
被災地の食材を扱ったニュース番組の中で主婦が「地元の?食材とかで?おいしく?食べれればぁ、復興とかにも?いいかな?とか思いました」と、
ここまで多用しているのは見事ですね。これは報道やネットで簡単に人を責めたり人の心を傷つけることができる社会背景があり、
そんな中で生きていくため断定せず争いごとを避け、曖昧にして責任を追及されないよう、言質を取られないようにする表れが
すっかり身についたのだろうと思います。
「マジ」「やばい」「チョー」「イケメン」
当初は変だと思いながらも年月が経つうちに今ではすっかり市民権を得て意識せずとも使っている言葉もたくさんあります。
これが昔からの例ではバクチから「ピンキリ」、将棋から「成金」、建築から「ろくでなし」、といずれも簡単で良い印象ではないですね。
しかし大昔からある言葉はとても深い意味があり、例えば祈りは(神に)意を宣べる(コミットする、感謝する)から「いのり」。
「人」はヒ(霊、魂)の留まるところだから「ひと」。「稲」は命の根だから「いね」など。こういう言葉を知ることはとても意義深いですね。
今までまったく気にしないで使っていたこういう言葉を作ってくれた先人の叡智に感謝し「今さら」ではなく「今から」勉強していきたいものだと思います。
古代の日本語のなりたちは50音すべてに母音が与えられているから尊いのだということだそうです。続きはもっと勉強してからにいたします。
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